シリーズ・懐かしき我が町、中野 ◎第1回

 

憩いの、さつまいも汁

「武蔵野鉄道」時代から、全学挙げての国会デモまで

 榎本 照雄(昭和26年商学部卒)

 

早速ながら、中野の歴史に残る一文をご寄稿戴きました。

シリーズ巻頭を飾る鷺宮史と、戦後のバンカラな当学風。一コマの「人生劇場」が胸に迫ります。

 昭和2年に西武鉄道が敷かれて都市化が始まるが、富士山が遠望できた妙正寺川沿いの水田と、後背地の畑を耕地とする農村で、昭和30年代までは、その面影を残していた。

 

通学の足

 西武鉄道は、高田馬場を起点とし、鷺宮は折り返しの始発駅となっていた。西武池袋線は「武蔵野鉄道」という別会社であった。西武鉄道が新宿まで延長し、武蔵野鉄道を買収してから、「西武新宿線」「西武池袋線」の呼称が生まれた。

 私の通学の足は旧西武鉄道であり、鷺宮駅で乗車して、終点の高田馬場駅で下車し、そこから学校までは徒歩である。急ぎ足でも十六分程度はかかっていた。

 通学路の両側は、戦中の米空軍による焼土作戦の痕跡をとどめており、大学のキャンパスも同様であった。早期に学園の復興を図るため、大隈講堂前に集合し、全学を挙げて国会議事堂にデモンストレーション行進を行った。

 時の学生リーダーは、白土氏に、地元鷺宮生まれの内田章氏(政経学部卒)もおられた。内田氏は野方西尋常小学校(現鷺宮小学校)の先輩であることから、多いにご交誼を戴誼きましたが、残念なことに、先年他界された。

 通学の足は、都電が高田馬場まで延長され、スクールバスの運行と共に、利便なものとなった。しかし、在学中はその恩恵には預かれなかったと思う。地下鉄東西線の開通、路面交通の円滑化から、都電の姿は今はない。

 

授業

 食料を含む主要物資は、配給制度下にあった。下宿住まいの地方出身学生にとっては栄養補給を必要としたこともあり、臨時休校が行なわれた。大隈庭園内に焼け残っていた学生ホールに入り、「さつまいも汁」で暫しの憩いをとったものである。

 学年末試験が終わると、酒問屋の学友が持ち込んだ酒を酌み交わし、別れた。この仲間達と開設したのが「早稲田大学商業英語研究会(B・G・A)であり、後輩の方々の尽力により、本年創立五十周年を迎えることができた。頼りになるのは後輩の方々かと思う。

 末筆ながら、中野稲門会の発展を祈ります。

 

<TOPへもどる> <会報インデックスへもどる>