懐かしき我が町、中野◎第6回

戦時下の学園雑感

石川健一(本町・昭和19年専政経)

◆中野から早稲田、戦前の街並み

 編集部から学生の頃の思い出を書いてくれという依頼があったが、もう60年近く前のことで記憶が薄らいでいるところもあって、固有名詞などに誤りがあるかもしれないことを予めお断りいたしておきます。
 私は、昭和17年から現在まで、軍隊にいたときと復員後郷里にいた約2年間を除いて、ずっと青梅街道沿いの住宅街に住んでいます。鍋屋横丁の交叉点から南の方へ200メートル位入ったところで、交通機関に恵まれているにしては静かなところです。
 早稲田大学在学中もここから通学しました。その頃の青梅街道は、新宿から鍋横までの間で大きな建物といえば、東京医大病院と鳴子坂の映画館、中野警察署位で、あとは木造の平屋か2階建ての家がずっと並んでいました。 また、高円寺近くまで行くと田畑が散見できるといった状況でした。
 早稲田大学へ通うときは、まだ、地下鉄はなくて、都電かバスを利用しました。都電の場合は、新宿まで出て、今の紀伊国屋あたりにオリンピックという店があって、その横から早稲田行きの都電が出ていました。
 また、天気のいい日には,JR(当時は省線)の中野駅まで15分位歩いて電車に乗り、高田馬場からバスか徒歩で大学まで行きました。
 もう、その頃は学徒動員とか東京空襲が始まっていて、食糧事情も次第に悪くなっていましたが、学校の学生食堂ではライスカレーやハヤシライスを売っていました。また、少し奮発すれば、正門付近の「高田牧舎」では洋風の一皿ものが、「呑気」ではおでんと茶飯が、もうすこし離れた小レストランでは薯サラダ付きのハムエッグなどが食べられました。
 しかし、これらも学校を卒業する頃には、牛・豚が鯨肉に変わったりと、内容がだんだん乏しくなってきました。
 他方、学園の中は、今と違って大気汚染などということもなく緑が鮮やかで、また、最近のように学内に立て看板や落書のようなものも皆無で、そのうえ掃除も行き届いていて、清潔で落ち着いた静かな雰囲気でした。
 学生も、講義を受けている教授に校内で行き会えば必ず会釈をしていましたし、教授の方々も個性豊かな風格のあるジェントルマンが多く、師弟の間に信頼と礼節があったような気がいたします。

◆今なお、生活信条として残る思い出の言葉

 さて、もう一つ、私にとって忘れられない思い出があります。そして、その内容はその後の私の生活の信条となりました。
 私の学んだ政治経済科の科長に、服部という教授がおられました。この先生は、経済原論など経済学の教授ですが、ときどき講義の途中で話が脱線して、大隈候や早稲田精神の話をされます。ある日、例のように話が横道にそれて、次のようなことを仰いました。
 人は、何か期待どおりにならなかったり、失敗したり、事故に会ったりした場合に、悪い方にばかり解釈しがちであるが、そういうときは、逆に、そのことのために何かいいことがあったのではないか、将来のための捨石となったのではないか、自分の知らない他の人がそのことで救われたのではないか、など少しでもよい方向に思いを巡らすべきだ、つまり最近の言葉で言えば、プラス思考をしなさいということですね。
 そして、続けて話されたことは、僅かでも暇があったら、きれいな音楽を聴いたり、よい絵画を鑑賞したりして、豊かな心を涵養するように努めなさい、ということでした。私は、今でもこのことを肝に銘じております。
 ところで、私の卒業した年は、あの終戦の前年でしたが、我が母校ではその戦争をしている相手国の言語たる英語の授業をずっと続けていました。そういう寛容と先見性に基づく確固たる教育方針の下で、殺伐たる世の中にも拘らず、穏やかで世に阿らない教養豊かな教授を多数擁していた早稲田大学は、いま考えても毅然としていて立派でした。
 私事で恐縮ですが、私には3人の男の子供がありますが、長男、次男は早稲田で、三男は慶応でお世話になりました。
 親子二代にわたって「都の西北」で学んだことを、いまも私は幸せに思い、かつ、誇りにいたしております。

<TOPへもどる>  <会報インデックスへもどる>