懐かしき我が町、中野◎第五回

時の流れに想う

鈴木薫(中野・昭三一年法)

 私は区内早稲田通りの商店街、中野五丁目(旧昭和通り五丁目)に生まれ育って、早いもので六十半ばを過ぎました。顧みますと、戦時中の小学校六年(当時は国民学校)の時、福島県の四ツ倉玉山に学童疎開をしました。
 中学一年の昭和二十年五月二五日深夜に東京大空襲があり、中野区内も約半分が焼失するという恐ろしい体験をしました。また、終戦直後には旧日本陸軍憲兵隊・陸軍中野学校の兵舎(現在の中野サンプラザ、区役所、警察大学などのある地域一帯)をアメリカ軍が進駐し占拠したので、一時は何とも名指し難い異様な雰囲気に包まれて、不安に過ごしたことなどを覚えています。しかも当時は食糧事情が極めて悪く、「もの」がない時代でした。
 東京の各地にできた戦後の盛り場同様に、現在の中野駅前バス発着所付近を中心にヤミ市ができて、そこでは旧日本軍の毛布や缶詰、岩塩に至るまで種々雑多なものが売買されて、それなりに活気を呈していました。
 敗戦のショックは大きく、さまざまな世相の混乱を体験し、やっと復興の兆しが見えだした昭和二七年に入学をしました。たまたまこの頃に、大学が創立七十周年の節目を迎えていると思います。そしてこれを記念する学生歌の名曲「早稲田の栄光」が作られています。この歌は、特に伝統の早慶戦に勝った時など、神宮球場で学友と肩を組んで感激の歌声で高らかに何度も歌ったものです。その他には、喧騒の早大事件などもありました。
 いまやっと四十年余りに及んだサラリーマン人生を紆余曲折して終え、改めて昔の古いアルバムの写真を見るにつけ、自分自身のこともさることながら、中野の街の変化と発展、時代の流れをつくづく感じます。そんな時、何となく高校時代に古典の時間に習った鴨長明の「方丈記」の冒頭句が脳裏に浮かんで重ね合ってしまうのです。
 ここに郷土中野の歴史を知るうえで参考になるのは、平成元年十月に開館された「区立歴史民族資料館」(江古田四丁目)です。当館は、古代から現代まで郷土の文化遺産を保存し、展示されていて内容も充実しています。なお、「中野区史」の略史も区役所正面玄関脇に刻まれています。その脇には五代将軍徳川綱吉が出した悪評高い「生類憐れみの令」で集められたお犬様(野犬)約十万匹を収容する犬屋敷(中野五丁目一帯)が、現在の中野駅を中心に、東は天神町あたりから西は警察大学校のあたりまでの約二八万坪あまりの広大な土地に作られたという由来が掲示されています。

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