歌舞伎町事情

新村雅英(上鷺宮・昭六二年法)

■小学生時代を過ごした歌舞伎町

 私は上鷺宮在住の中野稲門会の者で、新宿稲門会の宣伝をするつもりはありませんが、新宿歌舞伎町で祖父の頃より、とんかつ屋を営むことから、ご依頼を受けまして、早稲田にゆかりの地(?)新宿歌舞伎町をテーマに寄稿させていただきました。小学生時代を歌舞伎町隣の大久保で過ごした後、25年も前に現在の上鷺宮に引っ越し、2年前までは金融機関に勤めて地方を廻っていたため、古き良き時代の歌舞伎町については諸先輩方の方が詳しく知られていることと思われますが、家族等から聞いた話も含めまして、ペンを取りたいと思います。

■歌舞伎町の成り立ち

 歌舞伎町の歴史自体は大変浅く、もともと九州長崎藩主・大村子爵の別邸に属していたのが現在の歌舞伎町です。それを明治30年頃に尾張屋銀行の峰島家が買い取り、コマ劇場付近にあった沼を淀橋浄水場の堀土で埋め立てて原っぱにして、人が住み始めた頃が始まりとされるそうです。空襲で焼け野原になった戦後まもなく、町会長の鈴木喜兵衛氏がアミューズセンター(映画、観劇、ダンス、ホテル等)の娯楽街と近代的商店街を結合させた壮大な計画をたてました。その目玉として府立第五高女(現都立富士高校)跡地(現コマ劇場)に歌舞伎を上演できる劇場「菊座」の建設が決まり、昭和23年に町名を歌舞伎町と改めました。名付け親は当時の都の都市計画課長で後に早大教授、参議院議員石川栄耀氏で「復興計画の目玉は歌舞伎劇場の建設ならば迷う事なく、ずばり歌舞伎町にしてみては」との話からだったといいます。 昭和23年地球座は完成しましたが、建築制限令から菊座を始め、後の計画が頓挫。昭和25年東京産業博覧会が現在の映画館広場付近で開かれ、その後数年して制限令解除され、博覧会の遺産は東京スケートリンク(現ミラノ座)、グランドオデヲン、新宿劇場(現ゲームセンター)等娯楽施設に変わっていき、歌舞伎町の状況が好転したと感じた阪急総帥・小林一三氏が昭和31年、ようやく新宿コマ劇場を建設するに及び、これで歌舞伎町がひととおり完成したそうです。

■街事情

 映画館広場が完成した頃より、映画を見た後、喫茶店(「上高地」は今も一番街で健在)で仲間とだべる人、現在のカラオケの前身ともいうべき歌声喫茶「灯」、名曲喫茶「スカラ座」(中央通り横で健在)、「田園」では音楽を楽しむ人等が集まり始めました。また、地球座の裏手やゴールデン街にできた飲み屋は小説家、映画人、学者等稲門の諸先輩方(?)の梁山泊と化し、清濁合わせ呑んだいかにも人間らしいこの街独特の土壌、文化を熟成してきたようです。街並みは喫茶店、歌声喫茶、飲食店、パチンコ、ディスコ、カラオケ、居酒屋等(裏の方では売春宿、ピンサロ、ヘルス、キャバクラ、ランパブ等)時代の変遷はありますが、危なさを楽しむというか、多少、冒険できるようなスリルある雰囲気を楽しむ街であることに、この街の価値があるのでしょうか。朝が早いというよりも、夜が遅いという感じで、朝はアシベ会館裏の方で過ごした人々が駅の方へ歩いていく……。昼間は一番街劇場通りを映画館、コマ劇場へ行き交う人々。夜はまた、きれいに着飾った女性が風林会館等の中へ消えていき、それを追う男性陣、更にそれを横道に誘うポン引きがいて、集まり散じて人は変われど本当に24時間眠らない街です。私のお店の周りも飲食店が数多くありましたが、カラオケ、ゲーセン、パチンコ、ピンク系と横文字店に押され、何でも受け入れるキャパシティの広い街で元気のある街には変わりありませんが、何か友人を失っていくような寂しさも残ります。

■関係者の皆様、歌舞伎町へ

 不況の嵐が吹き、職場近辺の立ち飲み酒場で憂さを晴らそうとする人の多いこの頃、どれほどの早稲田マンが歌舞伎町に流入しているのか、懐かしのお店が今も残っているのかどうか、私も詳しくはわかりませんが、居酒屋「王将」の店長さんの話だと「学生コンパは今も多いけど、早稲田の学生は減ったね。明治が一番で、中央、早稲田、法政が続く」とのことで、かつて、早慶戦の後は何人もの人が飛びこんだミラノ座前の噴水池も埋め立てられ、大道芸人の集まる広場となり、伝統のバンカラ系から洒落た銀座、青山のボーイ系に転身する人も多いようです。歌舞伎町は映画とともに繁栄した街で最近の「タイタニック」ブームでは大勢の人で賑わいました。BSテレビで見れるようですが、映画ファンの方には思い出深いオールド映画を放映する映画館でもできたらいいと思います。皆様も早稲田マンの癒しの場として長く愛される歌舞伎町に是非お越しください。お待ちしております。

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