紀行シリーズ
アイスホッケーと私

渡邉和男(東中野・昭三二年理工)

◆長くスケートに関わってきて……
 私は青森県八戸市の生まれ、縁あって中野区に住むようになって40余年になります。八戸高校を卒業後、早稲田理工学部へと進みました。
 八戸は、北国ですから小さい時から冬はスケートをやり、高校では1年生から国体選手でしたので、稲門体育会からの誘いもあり、早大スケート部に入部しました。
 昭和28年にインカレ優勝、昭和32年2月のモスクワでの第一回世界選手権大会には全日本選手の一人として参加させて戴きました。卒業後、古河電工に入社。同チームでプレーし、全日本大会の優勝も味わっております。昭和48年頃、早大スケート部の監督、コーチもしました。
 これまで何かとアイスホッケーに関係してきましたが、何しろサラリーマン生活のこと、古河電工では、日光、亀山、豊田、千葉、東海村、と地方工場勤務が長く、定年を迎える5年程前からようやく中野区に定住することのなりました。

◆シニアとなって満大クラブへ
 中野区に戻ってきて、さっそくシニアのアイスホッケークラブである 満大メモリアルクラブ(満大クラブ)に入会し、アイスホッケーを始めました(このクラブの母体は満州医科大学アイスホッケークラブで、かっての名門クラブです)。
 満大クラブの満大チームは国際的にも知られており、海外遠征は今年で、アメリカ サンタローザでのスヌーピートーナメント大会に16回、カナダ ビクトリアでのプレーメーカートーナメントに4回、カナダ コキイトラム大会に3回となります。私は定年後の参加ですのでアメリカ、カナダ共4回になります。
 大会の中でも、特にスヌーピー大会は、漫画で有名なスヌーピーの作者シュルツ氏がスポンサーの歴史のある大きな大会です。今年は25周年の記念大会でした。日本からは満大チームだけが参加させてもらってます。今回はプレイヤー14人、ベンチ4人、レフリー2人、奥様方ほか14人が参加しました。
 スヌーピー大会は、サンフランシスコの北約150キロの、シュルツ氏のリンクのあるサンタローザ市で行います。緑が多くきれいな町で、サンフランシスコのベッドタウンといった所でしょう。
 私達の宿は毎年同じ所で、リンクに近いロスロブレスロッジです。毎年参加しますから、鍋、釜、自動炊飯器、湯沸し器、各種調理用具、食器等、近くに住む馴染みの方に一式預けて帰り、それで生活するものですから日本にいるのと何ら変わりません(米、醤油、野菜、は現地調達。日本からはインスタント食品、うめぼし、のり、漬物等持参)。
今年の大会は7月12日から17日までの5日間行われました。
 参加チームは全部で64チームでした。参加チームの国籍は、アメリカ、カナダ以外にはオーストリアの一チームだけです。西部の州は勿論ですが、ニューヨーク、マサチューセッツ、ワシントン、フロリダ、それにケベック州等東部からも参加しており、又ミシガン、ミネソタ、コロラド、やオンタリオ州からも参加しております。
試合は年代別にディビジョンを別けて行われます。最年長は75歳以上のディビジョン(スポンサーのシュルツ氏が今年75歳になられたので今年から新設)、以下70歳以上、65歳以上と5歳ごとに別けられて、最年少ディビジョンは40歳以上となっております(従って合計で8ディビジョンとなります)。更に、各ディビジョンはその中で4チームずつのグループに別けられ(従って合計16グループとなります)、その中で総当りの対戦となります。
 満大チームは70歳以上のディビジョンに所属しています。このディビジョンは1グループだけです。今回は、セントラルオンタリオ、カリフォルニアバーバンクス、オタワオールドタイマーズ、の各チームと対戦しましたが、善戦及ばずいずれも敗退しました。何せ昔プロの選手がおり、練習量の違いもあって歯がたちません。
 試合も楽しいものですが、大会期間中いろいろなイベントがあって、こちらの方もなかなか楽しいものがあります。大会初日のホスピタリテイナイト、バーベキュ-大会、ロスロブレスプールサイドパーテイなどがあります。

◆町をあげての一大イベント
 大会はシニアの大会であることもあって、多くは奥様連れです。従って地元の6チームを除いたとしても、約2000人の方がサンタローザに集まる事になります。人口数万人の小都市サンタローザとしては大変な事と思われ感謝にたえませんが、参加する我々にとっては多くのいろいろな方と知り合う機会を得、通常のツアーにない楽しみがあり、何回でも参加したい、もっともっと盛大でありたいと願っているところです。
 馴染みのご夫婦もできました。カナダから来ているご夫婦にモービルハウス(日本でいうキャンピングカー)に招かれたり、プレセントの交換をしたり、写真を撮ったり、少しは会話も楽しめるようになりました。
 大会に参加して思いがけない事にも出会います。一番驚いたのは、昭和29年3月にカナダのチーム、ケノラシスルスが来日し、私は全早大チームと全学生チームの選手として対戦しましたが、その時の選手ロバートソン氏がその時の日本語パンフレットを持参で訪ねて来てこられた事です。45年前の事です、感激しました。

◆スケートで”ワタナベ”といえば……
 またこういう事もありました。試合が終わって帰りがけ、対戦相手のキーパーが私のに声をかけ「君は渡邉絵美さんの父親か?」と尋ねるのです。「違う」と答えたら残念がっていましたが、そのキーパーはフィギュアが本業で、渡邉絵美さんがこのリンクで練習していたのでよく知っているというのです。写真を撮ってあげ、友達になりました。
 一昨年、私は試合中左足首を骨折しました。シニアの大会ですから、ボディチェック(三歩以内での体当たりチェック)やバッティングシュート(スティックを振り上げてパックを打つ)等のラフプレイは無しのルールになっていて、怪我をしないように配慮されてます。この骨折は自分の実力を過信した私のミスでした。
 リンクサイドには必ず医者が待機してくれていて、応急手当をしてくれます。翌日、市の病院で診断を受け、骨折とわかり、仮のギブスをはめられましたが、この事で思いがけない経験をしました。治療に先立ち契約書にサインさせられましたし、本人であることを確認のため手首にシールをはめられたし、病院内での移動は看護婦さんが車椅子を押してくれました。医者は治療室に出向いて来るのも日本と違います。
 松葉杖で帰ってきましたが、アメリカではショーを観るのも飛行機の乗り降りするのも優先で、係りの人が車椅子を押してくれたのに対して、成田に着いたらお願いしていたのにもかかわらず車椅子はなく、おまけに空港混雑とやらでタラップ手前で降ろされ、100メートル余り松葉杖で歩かされた時には余りの違いに開いた口がふさがりませんでした。

◆できる限り続けていきたい
 アイスホッケーは高度の技術を要するスピードのあるスポーツです。一般にはぶつかり合いもあり、激しい若者のスポーツだと思われています。しかし、シニアなりに年に合ったプレーをすれば、私のような骨折はしませんし、選手の交替は自由だし、楽しい汗をかくことができます。
 そうはいっても健康管理や適度のトレーニングは必要ですので、選手は大会に向けて自分なりの自制を強いられます。このことが又、生活の活性化になると思っております。
 高齢化社会を迎えて、これに合ったスポーツであるアイスホッケーを早稲田大学学生時代に体育会で学んだ事に感謝し、あと幾年できるかわかりませんが、できる限り今後も続けて行きたいと思っております。

<TOPへもどる>  <会報インデックスへもどる>