旅シリーズ1 バイクの洪水に目を白黒、刺激のベトナム紀行

 武部道雄(松ヶ丘・昭31年商)

 

今、アジアで最も注目を集めている国、ベトナム。

活気あふれるベトナムの紀行文をご寄稿戴きました。

 

 平成10年の秋、学生時代の仲間と四人でバリ(インドネシア)ヘ旅行したが、実に楽しく、愉快な一週間を過ごした。これに味をしめて、今回は、ベトナムに行くことにした。 

早速、機内でアクシデント

  ベトナムについては、ただ、ベトナム戦争と社会主義国ぐらいの事しか知識がなかったが、「行けばわかる」を結論に、平成11年1月29日、成田空港を飛び乗った。

  成田からの直行便はなく、・香港で乗継ぐか、・羽田から関西空港に行き、そこからベトナム行きに乗るのしかない。我々四人が成田を発ち、あと一時間で香港という時になって、私がいちばん心配していた事態が起こった。仲間の一人が機内で体調を崩したのだ。機内から空港へ連絡し、香港に着くとすぐ空港のクリニックへ運ぶ手配を航空会社がしてくれた。一時はどうなる事かと大変に心配した。

  一応段取りがついたので、残り三人はベトナム航空へ乗り換え、香港を後にした。あとで聞いた話では、ベトナム国内で、仮に重い病気になった場合、外国人が入れるような設備の整った病院などなく、シンガポールか香港に転送する方法しかないとの話であった。

洪水のごとし。ハノイのバイク交通事情

 香港を出て2時間半ほどでハノイに着く。成田を出て11時間。我々には疲れる旅だ。  ここの旅行社、といってもベトナムには一社で公務員である。これからは専用車に乗り、ガイドである彼女の案内で、3人は空港から約1時間、ハノイ市に向かった。

  ハノイは、ベトナムの首都で、人口300万人。ハノイホテルに着く。町と比べてホテルは立派である。これから3人のベトナムでの一週間が始まる。が、実はこれから何処に行くにも専用車に乗り、ガイドつきの生活だ。歩いて2,3分のところへ行くにも車だ。理由は、町は危ないとの話。ピンとこないが、物騒な話である。

  翌朝8時にホテルを出発し、町中に出ると、広い道幅がバイク・バイクで洪水のよう。その中に自動車が埋まっているという感じ。バイク同士が接触しないのが不思議なくらいだ。交通ルールなど全然ないのも同然。バイクは右に左にと、我先に走っている。市内の大通りはほとんど一方交通で、信号機など数えるほどしかない。日本の免許では通用しない。

  このバイクと自動車は殆どが日本製。よくもこんなに売ったものだと思う。やっとのことで町中を抜け出すことが出来た。

 「海の桂林」ハロン湾へ

  これからハロン湾をめざす。車で四時間ぐらいかかる。途中小さな町を通りすぎるが、どの町並みもレンガ造(赤土を焼いたもの)で、間口は決まって1間半しかなく、奥行きは少なく、どの家も粗末なものだ。町はずれは、田んぼの景色。田植えをしている風景は日本と同じだが、米の味はバサバサだ。

  ベトナムの人口は、7000万人、その70%は貧しい人達。この人達が幸せな生活を送れるようになるには、大変な苦労と時間がかかる思う。

  昼過ぎハロン湾に着く。ここの湾一帯は、風光明媚な「海の桂林」と言われ、世界遺産にも登録されている景勝地である。我々は船に乗り換え、静かな湾に乗り出す。たしかに海の桂林。ここを全部見るには一週間ぐらいかかるらしい。海からはぽっかりぽっかりと突き出した島々、今まで見た事もない素晴らしい景色。それを見ながら、我々3人の船上での宴会は実によかった。

  その後、島の中の一つに上陸。岩場の階段を2,30段上がるとそこにぽっかりと口をあけた穴がある。中に入ると目の前に広がるのは、目を見張るばかりの別世界。鍾乳石の太さは、大人10人で抱えられるものがあり、大きなビルがスッポり入る程の広い空間になっていて、ただ驚くばかりである。この鐘乳洞は、ある漁師が嵐を避けようとして偶然発見したらしい。5時間ほどのハロン湾巡りを満喫した。

 少女の作る刺繍絵に感激

  翌日は8時にハノイに向けホテルを出発する。

途中いくつかの町を通り抜けながらときどき休息のため車はとまる。そこには13歳前後の女の子が数人・・・40〜50センチ四方の下絵をもとに一生懸命刺繍をしていた。実に根気のいる仕事だが、彼女たちは黙々と針を動かし素晴らしい刺繍絵を造りあげていた。出来上がった刺繍絵はお土産品として店に並べられるが、一つの絵が出来上がるには20日ぐらいかかるらしい。中には唖の子もいて、心を痛める。

  車で走行中、ある町中でマーケットを見かけたので、マーケット見物をした。市場は売り手と買い手で大変な振わいだ。品物は食料品から日用品衣料品まで、見たこともない農産物・果物、多種多様な品物で大変な活気である。市場といっても、畳一枚分から畳二枚分ぐらいの広さに品物を積んでの商売だ。建物は薄暗い倉庫のようなところで、場外は屋根にトタンか板を張った程度のものである。

 活気の商業都市ホーチミンへ

  昼過ぎにハノイ市に戻ってきたが、ハノイはあまり見物するところはなく、4時の飛行機で次の商業都市・ホーチミンヘと飛ぶ。

  ベトナムは、北から南まで細長い。日本と似たような国で、ハノイからホーチミンまで飛行機で二時間半ほど。札幌から鹿児島ほどの距離で、北と南では12〜3度くらいの温度差がある。

  空港から市内に入ると、ハノイと違って町全体が明るく活気があり、車とバイクも多く、都会に来た雰囲気があり、さすが商業都市・ホーチミン(サイゴン)。人口四百五十万人。ベトナム一番の都市である。ホテルも大きいのがいくつもあり、日本人もわりと多くきているようだが、ほとんどが大阪からの旅行者のようだ。

我々はサイゴン川の近くのサイゴン・プリンス・ホテルに入る。早速、夜の食事へと、これもガイド付き車でレストランに出向くが、食事は美味しいものではない。ご飯は、スープをかけないと食べられないベトナム米。ぽろぽろの飯だ。

食事が済むとすぐ車に乗せられホテルヘ。町を歩く自由などなし、危ないとの理由だ。

ジャングルの島でも人とバイクの洪水

 翌朝8時に出発し、国道1号をメコンデルタの町・ミトーへと二時間ほど走る。

ミートの港からは、メコン川をクルーズに出かける。港には、大小様々な船、とりわけ大きい木造船は珍しい。茶色に濁ったメコン川の川幅の広いこと、2〜3キロはある。

  我々3人は、観光船に乗り、上流へ30分ほど溯ると、左側に見えるジャングルの島に着く。ここは果樹園になっており、色々な果物が食べられる。

  ホーチミン市に戻ったところに、プンタイ市場がある。ここの市場の大きいことと、人とバイクの混雑には驚く。市場内は、品物で足の踏み場もなく、ガイドに付いていくのがやっと。値段は日用品・衣料品・食料品とも安い。日本の4分の1から5分の1。バナナなどは大きな房で10円ぐらい。果物は実に安い。中国料理店でお酒と食事をして3人で4000円位、フランス料理の高級な店でもワインを2本ほど飲んで食事ともで一人4〜5000円位ですむ。

 待望の自由行動

  翌日はベトナムにきて初めて1日自由行動の時間がとれた。朝食をすまして、3人で朝の散歩をきめこむが、広い町中がバイクの群れで、道を渡ることも難しく、命がけだ。

  町の汚れた歩道に、朝食の露店が出ている。空箱を置いただけの簡単なもので、客は空箱に座って食事をしている(麺類が主)風景が見られる。

  町のシクロ(リンタク屋)が我々につきまとい、何処まででも熱心に付いてくるのには感心する。彼らを振り切って、バイクの群れを横切ろうとした時、突然2人乗りのバイクの、後ろに乗った男が、通りすがりに、私のカメラの入ったバックを引っ掴んで逃げようとした。が、取られずにすんだ。ベトナムに着いたとき、ガイドに町中は危ないと云われ、何処に行くにも車で移動する理由が、よくわかった。

  ハノイやホーチミンで見ることが無いのは銀行で、市の中央で見かけるのは外銀の支店。地方に行くとよく見かけるのが貴金属店。多分、個人は財産を貴金属に変えるのではないかと思われる。

 最終日、戦争の悲惨に胸を痛める

  ベトナム最後の日、8時に出発し、ベトナム戦争の傷痕を残すクチトンネルへ行く。地下に250キロに及ぶトンネルを掘り、この地下壕を使って米軍と戦ったところである。我々も地下壕に入って見たが、穴が狭く、屈んで歩くのがやっと。少し行って止めた。よくこんな所で戦ったかと思う。

  アメリカはベトナムへ54万人の兵員を投入し、ベトナムに落とした爆弾785万 トン、第二次世界大戦に使った爆弾の量の約4倍、7500万リットルの枯葉剤を撒いた。ベトナム人の死者300万人、アメリカ兵の死者58000人。これがベトナム戦争だ。

  ホーチミンでの最後の夜は、サイゴン川の夜景を見下ろすレストランでフランス料理を満喫した。サイゴンの夜景を後に、タンソニャット空港より大阪空港へと向かい、今回のベトナム旅行を終えた。

 

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