懐かしき我が町、中野 第3回

「十五少年漂流記」〜中野ヤミ市バージョン

 久保村 雅彦(中央・昭40年法)

 

大自然に囲まれた伊那谷から、戦後混乱ただなかの中野へ。

今回は、喧騒の中にも再生への活気あふれる中野駅周辺を、十代の清廉な視点が、ご案内します。

 

 時の流れに思いを馳せて

 昭和22年11月15日(当時10歳)、中央アルプスと南アルプスに挟まれた伊那谷から中野へ移り住んで以来52年になります。時の経過が「光陰矢の如し」の感慨、万人に通じるものと思われます。

 ポツダム宣言受諾・終戦(当時8歳)、サンフランシスコ講和条約批准、朝鮮戦争勃発、警察予備隊発足、売春禁止法成立(遊郭廃止)、60年安保騒乱(当時23歳)、べトナム戦争、日中国交回復、東京オリンピック、昭和元禄、ベルリンの壁崩壊、バブル崩壊・平成大不況……。

 徒然に回灯籠に映る時間の経過と待機の時間が、その長短に於いて何故斯様に隔たりが存するものか、と摩詞不思議であります。既往の時間には、慚愧の念は生じても期待と危惧は随伴しないからでしょうか。

焼け残った駅舎と庁舎

 終戦直後から中野駅(省線)近くに在住し、断片的ではありますが、その界隈の記憶を留める者として、間もなく21世紀を迎えるに当たり、半世紀前の中野駅界隈を点描することも幾分なりとも意義があるもの、との思い込みに拠るものです。

10〜15歳当時の記憶を辿り、今に残る漠たる感慨を容れて記す次第です。

 焼け残った駅舎と庁舎

東京下町に比べれば、中央線沿線は米軍機の空襲による家屋等の焼失は少なかった、とのことですが、それでも中野区に於いても概ね半数の家屋が焼失したと記録されています。中野区のシンボルと言える中野駅舎と中野区役所庁舎は、その焼失を免れ、戦前のものが残っていました。

 

【北口】

モダンライフと活気の商店街、北口には天狗のMP?

 北口近辺は焼け残りましたので、駅を背にして右手には、戦前の洋館風の昭和倉庫があり、天神町辺(現在の中野5丁目)には外壁がタイル貼りで玄関にアール・ヌーヴォー風の色ガラスを嵌め込んだ丸窓のある、昭和初期に建てられたと思われるアパートメントが数棟散在していました。中野が昭和初期頃からオフィス街に省線で通勤する「青い背広」のサラリーマンのベッドタウン化が始まりつつあったことを窺わせるものがありました。

 北口正面の現在の「サンモール」商店街は、当時北口「中通り」と称され、数少ない買い物の中心地でした(昭和23年「中野北口美観商店街」に変更)。現在のブロード・ウェイに至る少し手前を左に入ったところに名曲喫茶「クラシック」があり、学生のサロンでした。

 北口駅前広場では、ガマの油売りの大道芸人、粗末な台の上にピース煙草の箱を3個並べた博徒、野師、ヤミ商人等の周囲に、兵隊服の大人に継ぎ接ぎ服の子供が混じった人集りができていました。

 現在の区役所の一帯は、進駐軍により朝鮮戦争停戦(当時15歳)まで接収されていて、現在の「サンプラザ」前に衛門があり、そこにMPの衛兵が立っていました。アメリカ人を直に見る田舎出の子供には、その面立ちが鞍馬山の天狗のように観えたものです。

 

【南口】

ヤミ米・ヤミ酒・ヤミマー        ケット。ひしめく南口

 駅を背にして左手にある交番の位置は、全く変わっていません。11〜15歳(昭和23〜27年)の頃、伊那から米をリュックに詰めての帰途、その交番の前を通過する際に、肩に食い込んだリュックの重量を如何に軽く看せるか腐心したことを思い出すと、苦笑してしまいます。交番の並びの現在のTIPNESSの辺は、バラック建ての酒場があり、失明の恐れのあるメチル・アルコールを混入させた酒を飲ませているという噂が子供にも仄聞されました。

 JRガードに通じる現在の中野通りにある三菱信託銀行のところには老舗の明治屋。その並びに子供の垂涎の的である和菓子の坂井屋、月賦の丸井があり、その反対側には五叉路に掛けてヤミ・マーケットができ始めていました。

 その五叉路を大久保通り(旧宮園通り)へ左折すると直ぐにある現在の中野郵便局のところに、旧中野区役所がありました。今は朝夕車の渋滞が生じているこの通りは、当時はたまにMPのジープが疾走するのを見かける他は、バタバタと喘ぐように走って行くオート三輪車か、行商のリヤカーぐらいのものでした。

 

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