懐かしき我が町、中野 第2回
中野に納豆工場があった頃
菊池 正一(松が丘・昭和36年商)
胸に迫る、シリーズ第2弾。サークルと麻雀の学生生活から一転して、家業の納豆工場へ。中野の昭和史の一コマを鮮やかに浮かび出します。
競艇で稼いだ活動費
大学に入った頃(昭和32年)は、高校で柔道をやっていたから、柔道を続けようか、甘泉園に部があった弓道をしようかと迷ったが、二年になってから競艇部に入った。この部は、しばらくして水上スキーと一緒になり、後で水上スキー部になるのだけれど、その当時は、競艇をしていた。
部活は、多摩川、大森、平和島等の競艇場で行われ、プロの競艇が開催されていない時、艇に乗っていた。部活には燃料費その他資材費で結構金がかかるのだが、笹川氏の関係の、いいアルバイトがあった。
それは、プロの競艇に使用する艇のエンジンを調整するというアルバイトで、昭和35年頃、デパートの梱包のアルバイトが日給350円だったが、1500円もらっていた。おかげでそれほど部費に困った記憶がない。
あとは麻雀。光(雀荘)に教科書の専用置き場があったくらいだから、雀荘に寄って教室へ行くという生活だった。
サラリーマン一転、家業「白河納豆」を嗣ぐ
昭和36年に学校を出て、家電の販売会社のサラリーマンになった。
初任給は、16000円。当時初任給が一番良いとされていた日本IBMが2万円だったから、悪くはなかった。
しかし、月給を一晩で呑んでしまうという生活をしていたから、一年ちょっとでサラリーマンを辞め、家業の納豆製造・販売業に従事することにした。
白河納豆は、昭和2年に祖父が創業したもので、のちに父が継いでいた。
当時でも、23区に100社くらいの同業者がおり、中野にも3社あった。
納豆製造工程は、・大豆を浸漬する、・大豆をボイラーで蒸す、・蒸した大豆を容器(経木や藁苞などの)に入れる、・包装して・納豆室(むろ)[発酵室]で発酵させる、それを・製品として出荷、という手順で出来る。
販売員は、自動車、バイク、自転車(昭和30年代までは補助エンジンがついた「バタバタ」もあった)に乗せ、一軒一軒の家庭や、食料品を扱う店(乾物屋、酒屋、八百屋、スーパー等)に売りに行く。多い時は、ボイラーマン、製造に従事する女性6〜7人、販売員5〜6人、合計十14〜5人もいた。無論、母、私、妻も従事していた。
学生時代は、中学・高校・大学、その後もズーッと付き合っている川瀬(哲男、三六年商、中野稲門会幹事)と一緒にたまに手伝うぐらいであった。しかし、戦後まもなくは、新聞配達がそうであったように、納豆売りにも、小・中学生がいた。
都心化の波の中、47歳の転身
昭和37年、23歳から、家業に従事したが、狭かった中野通りも広がり、環七も出来つつあるようになると、周辺に住宅が増え、住宅地の中で製造業を継続することが難しくなった。
また、納豆製造にあたっても、計量義務化、製造年月日・賞味期限の表示、発泡スチロールの導入に機を同じくして進められた機械化が必要になると、大量生産・拡大化の選択を迫られる状況になってきた。
昭和47年には、中野区内で納豆を製造しているのは我が社一軒となっていたが、昭和61年には、我が社もついに納豆製造をあきらめ、不動産管理業に転身した。四七歳であった。
(合いの手、川瀬哲男、聞き取り、平崎敏之)