遥かなる私の中野 それにつながる早稲田
伊藤 哲子(江東区・昭31年露文)
江東区から中野に向けて、ラブコールが届きました
レンブラントの画を観るような。確かな遠景。
「中野」は単なる故郷志向でなく、今も尚「中野」は私にとって、全人格形成のルーツである。何事につけても、中野大好き人間。何よりも、中野自慢。
TWN、江東稲門会、千代田生命稲門会、早稲田春秋会、「青稲」(女子山岳部)OG会、勿論、専攻ロシア文学会に加入しているが、客員、あるいは準会員としても「中野稲門会」へ加入願いたい。
原稿依頼にあたり、私が学部のころは学生部長、やがて早稲田実業の校長になられた滝口宏先生が、沼袋の実家の前にある芸術呉服山田屋・西村重博氏に宛てたのお手紙の中に、私を描写した個所があるので、ご紹介したい。
ところで河野書店の事ですが、かつてワセダの文学部に河野哲子さんとおっしゃる学生がいて、なかなか情のこまかい、しかも理の通る人でした。その方が河野貞三郎さんの上の方のお嬢様と存じております。ご結婚になり、お子様ももう大きくおなりの事でしょう。気持ちの素直な立派な人でした。 弟さんが書店を続けてらっしゃるのでしたら、そのうちお伺いしてみましょう。哲子さんも奥様業だけでは勿体ないような才人でした。
その実家の「河野書店」の看板は、亡きおゝばひろし画伯が描かれたもので、西武線では昔からの店を、弟が不況の中で支えている。弟も早稲田。
昭和20年代から30年代にかけて、私が露文科に入ったことで、
三女、真子 区立五中、赤城台、商学部、
四女、通子 七中、西高、美術
五女、悠子 七中、明星、史学
へと、早稲田初まって以来、その記録は未だ無しといわれる、女の姉妹が四人、学ばせて頂いた。
当時、沼袋駅で乗り降りする学生は、二百人以上といわれ、郊外の夕焼けの町を角帽・黒の学生服で、下駄の人も多くおり、尾崎士郎の「人生劇場」の青春編の戦後版でした。